京阪電車「出町柳駅」から今出川通を東へ徒歩10分。
東大路通を渡ったその先に、京都大学前の交差点「百万遍」の由来となったお寺の門が見えてきます。
その名も、百萬遍知恩寺。
昔から“ひゃくまんべんさん”の通称で親しまれ、浄土宗七大本山の一つに数えられる大寺院です。
知恩寺は読んで字のとおり、“恩を知る寺”という意味。
浄土宗を開いた法然上人の弟子として18年間仕えた源智上人が、尊敬してやまなかった師匠へ感謝の思いを込めて、そう名付けました。
前置きはこのへんで…
どうも。AND SPACEの寺社仏閣担当、コピーライター兼ディレクターの橋田です。
今回のブログは、出だしでお察しのとおり、京都市左京区の百萬遍知恩寺にスポットを当てた内容をお届けします。
百萬遍知恩寺所蔵のとある“秘宝”に隠されたエピソードをご紹介しながら、「仏教×デザイン」について語ってみたいと思います!
尚、百萬遍知恩寺の歴史や建物の詳しい解説は、お寺をお参りいただいた際、AND SPACEがデザインを手がけたオフィシャルパンフレットを隅々までご覧ください。
1.デザイナーが唸った、百萬遍知恩寺所蔵の掛け軸
百萬遍知恩寺のパンフレット制作が始まって間もない頃のことです。
取り揃えた写真素材を目にした先輩のデザイナーが、不意に言いました。
「ちょっと、これ、めっちゃかっこいいやん!」
それから数か月後、完成したパンフレットに目を通していたお隣のデザイナーが、えらく感心した様子で言いました。
「てか、もう、これ、タイポグラフィですやん!」
百戦錬磨のデザイナー2人が唸ったのは、偶然にも同じ写真でした。
それは、百萬遍知恩寺が所蔵する一幅の掛け軸『利剣名号軸』だったのです。
作者は、なんと、あの、空海
この『利剣名号軸』は、毎年4月23日〜25日に営まれる「御忌大会」の期間中だけ公開される、百萬遍知恩寺の秘宝です。
そして、なんと、あの、真言宗を開いた弘法大師空海の作と伝わる貴重な宝物なのです。
先ほどの写真をよーくご覧ください。
掛け軸の左下に、「空海」の2文字と手形(手印)が押されています。
デザイナーが口にした「タイポグラフィ」とは、デザイン用語の一つで、活字(文字)をアーティスティックにデザイン表現したもののこと。
現役バリバリのデザイナーを唸らせたのは、今から1,200年も前の時代を生きた超メジャーなお坊さん、“空海”だったのです。
「利剣」と「名号」とは?
さて、一般の方には耳馴染みがないであろう『利剣名号』の意味を解説いたしましょう。
まず、「利剣」とは、切れ味抜群の、鋭く尖った刀剣のこと。仏教では、煩悩、邪気、災厄を切り裂く仏法(智慧)の象徴とされ、不動明王が手に持っている、“ご利益のある剣”です。
そして、「名号」とは、空海が掛け軸に豪快に刻んだ「南無阿弥陀佛」そのもののこと。分かりやすい言い方をすると、「お念仏」です。
『利剣名号』とは、「南無阿弥陀佛」の字画の末端を、それぞれ剣のように鋭く尖らせた“フォント”で書いた作品なのです。
文字の一つひとつに、「悪い因縁を断ち切らんがため」との願いがこめられているとも言えましょう。
2.空海作の掛け軸が百萬遍知恩寺にある理由
弘法大師空海が活躍したのは平安時代。そして、真言宗(高野山)を開きました。
一方の、百萬遍知恩寺の成立は鎌倉時代。宗派は、法然上人が開いた浄土宗です。
あれ?おや?と、素朴な疑問が思い浮かびませんか?
空海の作と伝わる『利剣名号軸』が、どうして浄土宗の大本山である百万遍知恩寺に残されているのか、と。
宗派と時代を超えて、『利剣名号軸』が百萬遍知恩寺所蔵の宝物となったきっかけは、元弘元年(1331)に真夏の京都を襲った大地震でした。
大地震と疫病のピンチに後醍醐天皇は…
鎌倉時代の元弘元年(1331)、京の都は大地震に見舞われます。
多くの建物が被害にあい、多くの人が命をおとしました。また、タイミングが悪いことに、季節は夏真っ盛り。地震から間もなくして、疫病が流行り始めてしまったのです。
その当時の帝の名前は、後醍醐天皇。
鎌倉幕府に歯向かって反乱を起こしたり、足利家と対立して南北朝時代に突入するきっかけをつくったことで有名な人物です。
そんな“武闘派”のイメージが強い後醍醐天皇ですら、突然の大地震には手も足も出ず、悲劇の連鎖に心を痛めます。
都を揺るがす大ピンチに、後醍醐天皇がすがったのは、神仏のご加護でした。
京都の名だたる寺社に悪疫退散の祈願をおこなうよう命じましたが、なかなかおさまる気配がありません…。
そこで後醍醐天皇は、民衆の間で評判になっていた一人の高僧に白羽の矢を立てます。
まる一週間かけて称えた100万回のお念仏
後醍醐天皇が「このピンチを救えるのは、君しかいない!」と頼った人こそ、百萬遍知恩寺第8世善阿空圓上人でした。
天皇からの勅命を受けた空圓上人は、悪疫退散の祈願をおこなうために御所へ参内。七日七夜(まる一週間)をかけて百万遍(100万回)にも及ぶお念仏を称え続けました。
この時、空圓上人の前に掲げられた掛け軸こそ、弘法大師空海が手がけた宮中秘蔵の『利剣名号軸』だったのです。
後醍醐天皇の期待に応えた空圓上人
空圓上人がおこなった祈願の効果は絶大で、祈りを込めた護符(御札)を町中の家屋の玄関に貼り付けたところ、あっという間に悪疫がやんだといいます。
絶体絶命のピンチを救ってくれた空圓上人の働きに感激した後醍醐天皇は、祈願に用いた『利剣名号軸』と『大念珠』、そして『百萬遍』の勅号を与えました。
今回ご紹介した空海作の『利剣名号軸』が百萬遍知恩寺の宝物となった時期、知恩寺が『百萬遍知恩寺』と呼ばれるようになった時期は、まったく同じ。
空圓上人という偉大なお坊さんの活躍と、後醍醐天皇の粋なはからいがもたらしたものだったのです。
さて、さて、前半戦はここまで。
後半戦の主役はこのお方。
3.弘法にも筆のあやまり & 弘法筆を選ばず
ここからは少し視点を変えて、お見事なタイポグラフィを書き上げた弘法大師空海の、アーティストとしての側面を語ることにしましょう。
さて、弘法大師にまつわる“ことわざ”といえば…
「弘法にも筆のあやまり」「弘法筆を選ばず」が特に有名ですよね。
「弘法にも筆のあやまり」は、どんなに技芸に秀でた人でも、時にはミスすることやうまくいかないこともあるという意味。「猿も木から落ちる」や「河童の川流れ」なんかと同じニュアンスのことわざです。
また、「弘法筆を選ばず」は、達筆な人は筆の良し悪しに左右されないことから、技芸に秀でた人は道具にこだわらないという意味で使われます。
日本の「三筆」に選ばれる書の腕前
弘法大師空海は、ことわざでも謳われるように、書の達人、名人、能書家として知られています。
その腕前は、嵯峨天皇、橘逸勢と並んで日本の「三筆」に選ばれるほど。書道界におけるプロ中のプロとして、平安時代から名を馳せました。
弘法大師の書の達人ぶりは、百萬遍知恩寺の『利剣名号軸』のように作品として残されているもの以外にも、エピソードとして語り継がれているものがいくつかあります。
平安時代を生きた“アーティスト弘法大師”の、2大エピソードをご紹介しましょう。
4,書の達人エピソード(1)五筆和尚 in中国
20歳で出家し、22歳で「空海」の名となり、修行の日々を過ごした弘法大師は、31歳の夏に遣唐使の一員として中国へ留学。長安(現在の西安)の都を訪れ、真言密教の真髄を恵果和尚から学びます。
正統の真言密教を受け継いでいた恵果和尚は、4,000人もいる弟子の中から弘法大師を後継者に選び、延暦24年(805)に亡くなってしまいます。
「真言密教のことなら唐で右に出るものはいない」とまで言われた恵果和尚亡き後、弘法大師は、師匠の生涯をたたえる石碑の書をしたためます。
その出来栄えの素晴らしさは、たちまち中国全土の噂となり、ついに、当時の皇帝の耳に入ることになったのです。
5行の漢詩を5本の筆で…
「宮殿の壁に書をしたためてほしい」と依頼を受けた弘法大師は、皇帝の目の前で、とんでもない大技を繰り出します。
5行の漢詩を書くために、弘法大師が用意した筆の数は5本。
その筆を手にし、1行ずつ筆を変えながら、とっても丁寧に書き上げましたとさ。
なんてことはありません!
弘法大師は、5本の筆を、両手で持ち、両足にはさみ、口にくわえてスタンバイ。
そして、皇帝ご所望の漢詩5行を一気に書き上げたのです。
人間離れしたスゴ技に感動した皇帝は、弘法大師に「五筆和尚」の称号を与えたのでした。
5.書の達人エピソード(2)応天門の額 in京都
唐での留学・修行を終えて、真言密教を日本中に広めようと帰国した弘法大師は、弘任元年(810)に真言宗を開きます。
干ばつの際に雨乞いをしたり、疫病が流やれば宮中で祈祷をしたり、子どもたちを育てる学校「綜芸種智院」を創ったり、四国八十八ヵ所の霊場を開いたりと、弘法大師は人々のために忙しい毎日を過ごします。
そんなある日、宮中から「御所を囲むさまざまな門の額の字を書くように」とのお達しがありました。
自慢の筆を手にとり、いくつかの門の名前をササっと書き上げた弘法大師でしたが、ここで「弘法にも筆のあやまり」のことわざが生まれるきっかけとなった、まさかの凡ミスが発覚します。
「まだれ」のはずが「がんだれ」で大慌て
『応天門』の額が門に掲げられた時のことです。
居合わせた公家の人たちと「素晴らしい額がかかりましたねぇ」「さすがは空海様」などと話していた矢先、額の文字を下からよくよく見ると、「應」の字(応の旧字体)の一画目の点が抜けているではありませんか。
そう、まさかの凡ミスとは、「まだれ」であるはずの應の字が「がんだれ」のままだったんです。
その場にいた周りの人たちは、「今さら額を降ろすのは大変だ」「登って書き足すのも難しい」などと大慌て。
しかし、弘法大師にまったく焦る様子はありません。静かに筆に墨をつけ、掲げられたばかりの額に狙いを定めます。
次の瞬間、手にした筆を額目がけて、スロー!!これまさに、一筆入魂!!
正確な距離や高さはわかりませんが、弘法大師が投げた筆は、抜けていた「應」の字の一画目の点の場所へ正確に飛んでいきました。これまさに、ウイニングショット!!
思いもよらぬミスをリカバーする見事な点をうった神技に、一同驚愕。弘法大師の書のポテンシャルの高さを改めて知る機会になったのでした。
いやはや、恐れ入ります。
6.“見る人それぞれの角度や感性”が見いだす、新たな価値
寺社仏閣が所有している文化財や什宝物は、いつでも見ることができるもの、期間限定で公開されるもの、博物館に預けられているもの、まだ誰も本当の価値を知らないものなどさまざまです。
歴史的価値や希少性の高さによって国宝や重要文化財に指定されている建物、仏像、書物、絵画、工芸などであれば、目にする機会や知っている人の数も多いでしょう。
しかし、人の興味関心は、必ずしも国宝や重要文化財に限ったものではありません。
百萬遍知恩寺の『利剣名号軸』をひと目見たデザイナーが、思わず唸り声をあげたように、“見る人それぞれの角度や感性”によって、思いもよらぬ魅力や新たな価値が見いだされることもあります。
だからきっと、根掘り葉掘り解説した『利剣名号軸』のタイポグラフィより、パンフレット表紙の『知恩寺』のタイポグラフィのほうが「ステキやん」と思う人だっているでしょう。
“ステキ”と思える何かは、いつ、どこに潜んでいるか分からない。
これまでより、もう少しだけ、キョロキョロして生きていこう。
見慣れたものでも、少しだけ違う角度で見てみよう。
橋田
この記事を書いた人作務衣を身にまとい、“センス”を持ち歩く、京都出身の癖ある渋男。寺社仏閣専門紙の記者(おてライター)として働くこと10年の経験を活かした、多彩な「言葉遊び」と「韻を踏みがち」なライティングで、テンポの良い文章を奏でる。生きた動物は苦手なのに、アニマル柄好きという風変わりな趣味でデスクは散らかり気味だが、原稿と案件はちゃんと整理整頓できるのでご安心を。社内では、話が長いで有名なお爺系ムードメーカー。仕事のスタイルは、そんな人柄がにじみ出る「義理と人情」で打席に立つスイッチヒッター。